霊園側に毎年支払う管理費ブログ:11月19日
ミーのママは、
すべてを受容してくれるような人でした。
ミーが小さい頃、庭の草木に触れさせてくれたのも、
料理のお手伝いをさせてくれながら
手作りの智恵を教えてくれたのもママでした。
ミーにとっては、
気持ちの中で拠り所になってくれるような人でしたが、
実家を出て20年も経つと、
ほとんど話をすることもなくなっていました。
自己主張することのないママは、
会うたびにただ微笑んでいて、帰りがけに何か食べ物を持たせてくれ、
いつも「さよなら」と言いました。
今思えばママは、
もう自立してしまったむすめに、今さら何をする必要もないだろう…と、
静かにミーを手放していたのかなぁと感じたりします。
それがまたミーには有難かったのかもしれません。
でもミーの心の中では、
何でも受容してしまうママに、
家族みんなで犠牲を強いている申し訳なさを感じていました。
ママが治る見込みのない癌にかかっていると知らされても、
当時のミーは看病をしようとするわけでもなく、
どう接していいのかわからずに戸惑い、
さらには、そんな自分を情けなく感じていました。
ママがホスピスに入った時、ちょうどお盆でしたので、
ミーは帰省して、そのホスピスにママを見舞いました。
郊外の大きな病院の最上階にあるホスピスの明るい窓からは、
完成間近の瀬戸大橋が見えました。
「あれが瀬戸大橋やで」などと風景を説明する父親に、
ママは「家はどっち?」と聞きました。
普段からあまりにも執着心のないママだったので、
その言葉もさらりと聞き流してしまいましたが、
きっと住み慣れた家や、その周りの音や風景の中に居たかったのでしょう。
ホスピスのような恵まれた環境で最後の時を過ごせたのも、
とても幸せなことだったろうと思いますが…